せめて、物分かりの良い人でいたかった。
なんの取り柄もないのに千空の隣に立つことを許されているなんて。贅沢だって自分が一番分かってる。
そんな私達の関係を知っている人はごく僅かで、彼と仲間のやり取りを見て密かに不安や焦りを感じることはこれまでたくさんあった。なんでもないフリをしてやり過ごすのが当たり前になっていた。
そうしている内に、私は自分自身に暗示をかけていたのかもしれない。

『そんなんじゃ、いつか逃げられちゃうよ』

半分冗談で半分本気。事情を知ってる人に、とうとう言われた。
逃げられるも何も千空は別に誰のものでもない。彼の見てるところはいつだって同じ。何千年経っても変わらない。

『そうなっても仕方ないよ。千空がこの先どんな道を進むとしても、私は応援したい。それで良いんだ』

我ながらカッコつけすぎ。
でも、もっとまずかったのは全部千空に聞かれていたこと。
その後すぐに私の手首を掴んでここまで引っ張ってきた千空も、いよいよと思っている頃かもしれない。
いつまでも悩んでたって前に進めない。分かっているのに何度も何度も蹲ってしまう私を、彼は甘やかし過ぎた。

「さ、さっきの嘘じゃないから!」

堪えきれず、口火を切ってしまった。しかも明らかに良くない方に向かって。

「千空を応援したいって思ってるの、嘘じゃない」
「あーそうかよ。そりゃおありがてえ。で、その後は」

全然おありがたくなさそうだ。
離された手首は、まだ熱を帯びている。
千空の求める答えが分からず黙っていると、彼は居心地が悪そうに首の後ろを触った。

「逃げられてハイそうですかで納得すんのかテメーは」
「それは……でも、千空は、」
「この手の話題で仮定とか1ミリも意味はねーが……俺は無理だ。理由がどんだけ合理的だろうと真っ当だろうとそれだけはな。なぁ、そう思ってたのは俺だけか」

こんなに直接的な言い方をしてくる千空は珍しい。
この状況でもまっすぐに私を見つめてくる彼は、強い人間だ。だけど。もしかしたら。
見せないだけで彼も私と似たような気持ちを抱いているのかもしれない。私は私のことばかり考えていて、全然気づいてあげられなかった。

「千空。私ね、物分かりの良い人でいたかった。千空の前では。千空は皆のリーダーだから、横に立つ人はそれ相応じゃないといけないって思ってた」

だからあの時千空が私の隣からいなくなっても仕方ないと言った。そうやって無理やり納得しようとした。

「道が別れても、私ずっと千空のこと応援する。それは本当だよ。でも続きがあるの」

さっき言われたみたいに、千空が遠くに行ってしまって彼の隣に立つのが私じゃなくなったら。
それでも私は千空の背中を押す。千空が迷わないように。
一人きりになった私は、なりふり構わず泣きまくる。涙が枯れるまで泣いてやる。

「私だってずっとずっとずうっと千空が大好きだったのに、ずっと一緒にいたかったのに。納得なんかできるわけない」

たくさん泣いた後は海に行く。
海の泡になろうとしたけど、どうしてもできなくて、また泣く。
その内に泣くのも飽きて、貝殻を拾ったり歌を歌ったり夜空を眺めたりしながら千空の声も顔も思い出せなくなっていくんだ。

「……退屈だな」
「私の人生から千空を引くと、こうなります」

平気なフリをすればするほど膨らんでしまった気持ちを、全部彼に見せてしまった。
情けなくて恥ずかしくて、手の震えが止まらない。
必死で抑えようと握りしめていると、千空の手が私のそれに重なった。

「わ、」

やっぱり千空は私にでも分かるような言葉を使うのは苦手で、だけど私に対する行為そのもので色々なことを伝えようとしてくれていた。
でも、こんなふうに抱きすくめられたのは初めてだった。
いつも細いとか力がないとか言われている彼だけど、男女の力の差を感じるには充分だ。

「千空、あの、ちょっとだけ……」

腕の中で身じろぐと、少しだけ力を緩めてくれた。
その隙に彼の背中に両腕を回して、私からも力いっぱい抱きしめた。

「痛ぇ。締め殺す気かよ」
「う、ごめんなさい」

顔は見えないけど、今の千空はきっと笑ってる。
私の輪郭を確かめるように、彼の手が肩から背中の間を何度も滑っていく。

「こういうこと今まで全然しなかったけど、なんか楽しいね」
「そうか?」
「うん。楽しくて温かくて、嬉しい。大好き」

もう暑苦しくなってきたと、つれないことを言いながら千空は私を離すタイミングを計りかねている。
こんなに甘やかされたら明日も明後日もして欲しくなってしまう。
だけど言わないでおこう。こうしてれば千空も簡単には逃げられないね、だなんて。
千空の両腕はこれからも多忙で、私はやっぱりこれからも物分かりの良い隣人でいたいから。



2020.6.18 『淋しき我ら』


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